デ・レーケ導流堤
若津港導流堤(筑後川導流堤、デ・レ-ケ堤)は、明治政府がオランダ人技師ヨハニス・デ・レ-ケを招き、築いたものです。設計者の名前から「デレーケ導流堤」とも呼ばれています。
有明海は干満の差が約6mと大きく、潟土が堆積しやすく、明治時代の重要な輸送手段である船舶輸送を妨げる事が多かったため、筑後川左岸側の土砂が溜まるのを防ぎ航路を確保するため、1883年(明治16年)に筑後川の調査が行われ、1890年(明治23年)に完成しました。
若津港導流堤は、引き潮の時だけ姿を現わします。この導流堤のおかけで、川の流れを速め、堆積する土砂を遠浅の河口に押し流すことで、航路を維持することが可能になりました。導流堤の完成から100年以上経った現在も、その役割を果たしています。
若津港導流堤の見学は、河口から5kmほど上流にある「新田大橋」上から美しく見ることができます。
若津港導流堤は、社団法人土木学会の平成20(2008)年度「選奨土木遺産」に認定されました。
若津港の沿革と概要
若津港は筑後平野の中央を流れる筑後川を航路として栄えた河口港です。
今から250余年前の江戸時代にさかのぼる宝暦元年(1751年)、当時の久留米藩によって筑後川の下流に開かれ、筑後地方の海の玄関口として、背後の広大な穀倉地帯から米や麦、日田地方の木材の積出港として大小の船舶が常に輻輳し、大いに繁栄してきた河口港です。
ヨハニス・デ・レ-ケ
ヨハニス・デ・レ-ケは西洋の近代土木技術の国内導入に際し、1873年に内務省に招かれたオランダ人技師です。
31歳で来日したデ・レ-ケは、その後1903年に帰国するまでの30年間滞在し、大阪淀川や木曽三川の治水、各地の砂防や治山、または全国の港湾の築港計画に携りました。
デ・レ-ケが携った土木構造物は100年以上経過した現在でも日本各所に現存しています。